日本人差別法 『本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律』 の廃止を目指すブログ

愛国者とは、常にお上品でなければならないのか!? 愛国者であるか否かは他者が決めるものなのか!?

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 (出典先)愛国者 (@kengo12151216) | Twitter

 

 

 

(序文)

日にち変わって昨日、27日に以下のWJFプロジェクトに関する記事を書かせていただきましたけど、今回は千円札の「逆さ富士=シナイ山説」という、いわゆる陰謀論といわれるものにも関連はしていますが、これとは違う論点について書かせて頂きました。

 

wasavi0032016.hatenablog.jp

 

WJFプロジェクト 間違えたときにどう振る舞うか

上記のWJFプロジェクトの記事へ、【桜咲】というハンドルネームでいくつかコメントをさせてもらいましたが、そのコメントの一つに対してWJFプロジェクトの支持者らしきユーザーから此方に対する反論のコメントを投かんされていることに気づき、

しかし、そのユーザーに返信をしたところで都合の悪いコメントは公開しない(非公開)WJFプロジェクトですから、どうせまた非公開のままだろうと考え、このブログから自分の意見を書かせてもらうことになった次第です。

 

 (法律用語としての善意・悪意)

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上記、【まつぼっくり】というユーザーによる、私に対する反論のようですが、「悪意がなかったら、何をやってもいいのでしょうか」とこちらに問いかけているようですが、そのあとに「法律に触れなければ何をやってもいいのでしょうか」とも問いかけているようです。

この方が考えている【悪意】というのは「相手のよくない結果を望む、心の中に生じる意思を意味する。ウィキペディアより)」という意味として捉え反論を書かれているのだと思います。例えば、自分の利益や相手に対する恨みつらみから貶めてやろう、騙してやろうなどの他者の利益を不当に害する道理に反した、反社会的な意思としての悪意ですね。

私は、千円札の「逆さ富士・シナイ山説」問題でのS氏とWJFプロジェクト側のやり取りの中に、全く無関係な第三者として、WJFプロジェクトのS氏に対する度を越したバッシングのやり方に看過できないということでいろいろと意見をぶつけてきたわけですが、確かにその中で【悪意】とか【善意】そして上記のコメントには出てきませんが【無過失】という言葉を交えながらコメントをさせてもらったことはあります。

 

この【悪意】とか【善意】といった言葉ですが、普通一般で解釈される意味で使ったのではなく、法律用語として普通一般で解釈される意味とは全く異なった意味で使用したわけです。

と言っても、なかなか法関連に詳しい人でなければ理解できないものであるだろうし、こちらがあらかじめ具体的な説明をいれてコメントをしておけばよかったのですが、その時点では悠長に構えてコメントをできる状況ではなかったというのもありまして、そのまま使用して書いたという状況です。ですから、こちらのコメントは一般の人には少々わかりにくい、誤解を受けるようなところもあったかと思います。

 

私はよくコメントの中で、WJFプロジェクトによるS氏への度が過ぎる不当なバッシングについて、「批判をするなとはいわないが、善意・無過失であろう者に対しする批判の仕方としてはおかしい」というようなニュアンスで意見をしたことがあります。

そもそも、別にこちらはなんら無関係な第三者であり、WJFプロジェクトがどのようなやり方で他者を批判しようが、無関係なこちらがいちいち余計な口出しをする必要もなければ、義務だってないわけですが、

しかし、WJFプロジェクトの一連の言動を見たところ、一般の素人が小手先の反証だけで解決できるような問題ではないにも関わらず、「逆さ富士は富士山だ、シナイ山ではない」といい、S氏はデマを言った、デマゴギストだと相手の本名と素顔をブログに晒し、不特定多数者がいつでも閲覧できるようなネット上の公の場から発信、1度や2度ではなく幾つもバッシング記事を書き、執拗に叩いている様子をみて、

これを放置しておくと、相手の発言権(表現の自由)や人格権(名誉)まで害し、これを見た第三者がここまでやっても良いんだと勘違いをし、同じようにやればだんだんと自由にものが言えなくなる、と考え、

また、そういうWJFプロジェクトの自己中心的で傲慢な思考、寄付を募り人様から金銭の支援を受けてやっている立場のWJFプロジェクトの道理に反するやり方を問うために、討論を挑んだわけです。

 

少々、前振りが長くなってしまいましたが、ここからは法律的観点からの【善意】【悪意】について書いていきます。

 

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 (内容の出典先)善意 - Wikipedia

 

法的な観点からの【善意】【悪意】の意味としては、上記の画像に書かれてあるものがそれです。

【善意】とは「ある事実について知らない」ということ。そして【悪意】とは「ある事実について知っている」ことを示す。例えば、民法上の行為でいえば賃貸借契約、A君は実は16才の未成年なのですが、不動産屋Bは未成年とは知らずマンションの賃貸借契約を行ったとします。この時のA君は、ネクタイにスーツを着て、いかにも成年者の社会人に見えたとします。しかし、保護者の同意なく契約をしてしまったとします。

民法上では、未成年者の法律行為(民法上の権利、義務が発生する契約などの行為)は保護者の同意を得なければできないことになっています。(ただし、未成年であっても婚姻をしていれば成人として扱われる)

そうすると、保護者はA、B間の契約を取り消し、契約時に遡って無効にすることもできますが、これはさておき、このA、B間に【善意】【悪意】という言葉を当てはめて言えば、A君は未成年の間は保護者の同意が必要になることを「知らなかった」、不動産屋Bの方は生年月日等で未成年であるという事は了知していたが、保護者の同意を得たものと考え契約をした。つまり同意を得ていなかったとを「知らなかった」ということです。

つまり、両者とも【善意】の状態です。この場合、保護者が同意すればそのまま契約は成り立ちますが、取り消した場合は契約無効。

この逆のパターン、仮に不動産屋Bが「知っていた」場合は、【悪意】であるので初めから契約がなかったという無効の状態になります。

 

このような感じで法律用語としての【善意】【悪意】というのは使われますが、千円札の富士山問題でなぜこの法律用語を使ったかと言えば、自分の放送で千円札に描かれている逆さ富士はシナイ山なんだと発言したS氏は、知人の銀行関係者から聞いた話をもとに発言したのであって、お札と密接な関係にある銀行関係者という立場であり、信用するに足りるなにかがあったから信用し、まさかデマだとは思わなかったであろう様子から【善意=知らなかった】という意味で使用したわけです。

しかし、こちらは全く説明を加えていなかったわけではなく、簡単な説明を入れてコメントをした記憶があります。そうしないと全く話が通じなくなるので。

そういう【善意=デマとは知らなかった】(人間性が良いとかの問題ではなく)のS氏に対するWJFプロジェクトのデマゴギストと執拗に叩くその言動を問うのが目的でコメントをさせてもらったという状況ですが、やはり勘違いをする方も多く、又はこちらが何を重点に問うているかを知っていながら論点をはぐらかし反論をしてくる人もいました。(WJFプロジェクト本人がその典型)

 

 (愛国者とは、常にお上品でなければならないのか!?)

自称だか他称だか知りませんが、「愛国者」がニコ生等で食事しながらダラダラ喋ったり、下品な話をしたり、簡潔に書けば女性視聴者が吐き気を催すような、視聴したこと自体を後悔してしまうような行儀の悪い様をそのまま垂れ流しても、「愛国無罪」なんでしょうか。

 

【まつぼっくり】というユーザーの方のコメントを一部引用したものですが、一見みるとお上品でなければ愛国者ではないかのように感じられるわけです。

一つ、ある事例を出します。

 

動画の5分23秒から注目して頂きたいと思います。当時、なにかの大臣をされていたと思われる民主党衆議院議員だった岡崎トミ子氏の答弁が行われます。(質疑は自民党・稲田議員)

岡崎氏は元アナウンサーらしく、明瞭で滑舌良く、声のトーンも良く、話す様子、立ち居振る舞いはとてもお上品な感じでそれなりの好感はもてると思います。

しかし、岡崎氏、国会の外、はたまた日本外でなにをされていたか! 

 

 

2003年2月、韓国への海外視察の際、元慰安婦と称する関係者が毎週水曜日に個人補償を求めて行う抗議行動(通称水曜デモ)に国会議員の立場として参加し、日本の国旗にバツ印がついたプラカードの前で、こぶしを突き上げながら、在大韓民国日本国大使館にて行われている反日デモを応援した。

これについて、2010年10月14日に参議院予算委員会において西田昌司から「(岡崎の活動は)日本人の血税を使って日本(の慰安婦)でなく外国人のみお金を渡そうとする行動」「自国の利益を排して外国のために働く。これは売国という。辞書でもそう書いてある。」「国会議員としての資格はない。直ちに辞めるべき。」と批判された。(ウィキペディアより引用)

 

本文中の水曜デモとは、いわゆる・日本軍『慰安婦』問題と言われれ、大東亜戦争第二次世界大戦)中、当時日韓併合により当時は日本人だった朝鮮半島の女性等20万人が旧日本軍によって強制連行され、無理やり慰安婦にさせられ、強姦、性奴隷にされたというもので(実は嘘八百の作り話)、毎週水曜日に韓国の大使館まで犠牲となった元慰安婦に対して謝罪と賠償を求める抗議デモのことですが、

当時、岡崎氏は日本の国会議員という立場でありながら、しかも、旧日本軍による強制連行や性犯罪を示す第一級の証拠は何一つ発見されていないにも関わらず、この水曜デモに参加し、「国会で決議をあげる、それがまず第一。その謝罪によって被害者に保障する、国民の税金によって保障すること」と、別に悪びれもせず、例のお上品な口調でとんでもない発言をしていたのです。

これは余談ですが、このような国賊行為を行う岡崎氏に対し、自民党の西田議員は烈火のごとく糾弾してみせたわけですが、現在、その西田議員、岡崎氏と同類になってしまっています。2015年12月28日の日韓合意にて安倍政権は韓国の自称・元慰安婦らに対する支援金10億円(国の税金から捻出)と謝罪らしき事を行ったわけですが、西田議員は安倍・行政府の長に対して「売国だ」とか「直ちに辞職しろ」とか糾弾した様子もなく、

2016年には、在日外国人の人権のみを保護し、日本人の人権は保護しないという差別的な憲法違反の法律『いわゆる・ヘイトスピーチ解消法』の成立に尽力し、それまで支援してきた保守派からバッシングを浴びた人です。もう落ちるところまで落ちたという感じ。

 

これはさておき、外観は思いっきりお上品でも反日売国奴はいますし、お上品だからといって愛国者であるとは限らない。つまり、お上品かそうでないかという基準で愛国者かそうでないかを判断するのはナンセンス!

そもそも、礼儀やマナーを競う大会をやっているわけではないのだし、お上品か下品かという外観、態様など人の内心に芽生えた祖国や先祖を思い、家族や周りの大切な人を思い、愛し、守っていきたいという強い思い、そういう崇高な思いと繋げて語るのは、あまりにも底が浅すぎるのではないかと思うわけです。

 

できたらお上品にこしたことはないですが、なにか大きくズレていると、例のコメントを拝見した時に思いました。

不特定多数の者が視聴するネット上の放送で素顔を出して放送をするのなら、それなりに視聴する方に不快感を与えないよう、最低限のマナーは必要だと思いますけど、例えば、放送中、素っ裸になり、痴態を繰り広げたりという公序良俗に反するようなことはアウトでしょうが、食事をしながらダラダラとしゃべるのは本人の自由でしょうし、後は見る人の判断に委ねるしかないでしょうね。それが嫌ならその人の放送は見なければいいだけですし。食事をしながらしゃべる動画なんて、今いくらでもありますよね。例えば大食い動画とか。

 

愛国者であるか否かは他者が決めるものなのか!?)

WJFプロジェクトによって逆さ富士はシナイ山であると語ったS氏に対し、「愛国者ではない」とする指摘をした記事を拝見したことがありますが、なにか違うんじゃないの?と思うわけです。

まず、その土台となる愛国心があって愛国者なのだから、他人にその人の心に生まれ育った国を愛する気持ちがあるかどうかなんて本来わかるわけがないし、なにか気に入らないことがあれば「あいつは愛国者ではない」というのは、自分の思うようにならないから愚図愚図とすねてみせる子供と同じじゃないかと感じるわけです。

支援者の【まつぼっくり】氏にしてもそうで、自分の価値観を基準にして相手が愛国者かそうでないかを判断している傾向が見受けられますが、ハッキリ言えば何様なんですか!というところでしょうか。

 

そもそもですね、愛国者としての義務や責任を果たすのは、あるときは命がけでもあるわけですよ。そういう愛国者という言葉を易々使う人を私は信用できないのです。

 

私は思うんですよ。本当に自分が生まれ育った国を大切に思っているかどうかは、いざ、国が崖っぷちに追いやられたときに、個を捨て公のために自分をどれだけ犠牲にして動けるかどうかだと。

 

普段は、いくらだらしなくても、おっちょこちょいでも、不注意によってデマを流しても、お下品であっても、うわべだけ、能書きばかり垂れて偉そうにしてても、いいんだと!しかし、いざ、国難のときに進んで自分を犠牲にし動けるかどうかだと思うわけです。(日本の政治家のみなさん、頼みますよ!)

 

完璧を追求するのは自由でしょうが、それを人に求めるがあまり、その人の自由を押しつぶすようなことがあっては身もふたもない。

 

グダグダと細かいことを言えばキリがないですよね。

もう少し考え方の幅を広げ、ある程度、ゆとりをもって物事をみていく方が自分にもプラスになるのではないかということを、WJFプロジェクト界隈に言いたいと思います。

 

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