【デマではなく実話!】 関東大震災 朝鮮人暴動:朝鮮人テロリストの襲撃 【実話をデマ、流言飛語にさせない】
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今回、ノンフィクション作家の工藤美代子氏の著書『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』より一部引用してアップされている動画を発見しましたので、その動画の内容を全文字起こしさせて頂きました。
情報によると、自身の感情は抜きにして公文書などに基づいた客観的な視点で書かれた本の様です。
また違う意味でオススメなのが以下の記事です。関東大震災と、いわゆる朝鮮人虐殺事件についての問題点をとてもわかりやすく客観的に指摘されていますので必見です。
目次
工藤美代子 関東大震災 朝鮮人暴動は「皇太子暗殺」を狙ったテロだった 流言飛語ではなく実話!より引用
関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃 - YouTube
※上記動画より全文字起こし
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(文字起こしここから)
工藤美代子
関東大震災 朝鮮人暴動は「皇太子暗殺」を狙ったテロだった 流言飛語ではなく実話!より引用
♦ 南京大虐殺のデマと同じ
平成7年(1995年)に起きた阪神淡路大震災や平成23年(2011年)の東日本大震災時における日本人の規律正しさ、他を思いやる無私の精神は世界の人を驚かせ、称賛の的となりました。大きな略奪も起こらず、整然と行動する罹災者の姿は日本人ならではの美徳です。
(参考)
しかし、今から88年前の大正12年(1923年)9月1日に関東地方を襲った関東大震災においては、人々は『流言飛語』に惑わされ、何の罪もない朝鮮人を虐殺した・・・。それは日本人の大きな汚点であると言われています。作家の大江健三郎は『ウルトラナショナリズムの異様な突出』と厳しく批判している。しかし、本当にそれは事実なのでしょうか。阪神淡路、東日本大震災においてあれほど冷静に行動した日本国民が、関東大震災のときだけ我を失い非人道的な行動に走ったというのでしょうか。
虐殺された朝鮮人の数は2,600人とも6,400人とも言われ、果ては23,000人とした文書まで存在します。①『南京大虐殺』のデマゴーグを彷彿とさせるではありませんか。もしかしたら、日本人はとんでもない謀略宣伝の渦に呑まれ、根拠もなくそう信じ込まされてきたのではないでしょうか。
私はあらゆる資料を再検証してその真相を探り『関東大震災 朝鮮人虐殺の真実』(産経出版社2009年)を上梓しました。ここでは、その要点をかいつまんでお話したいと思います。
♦ 朝鮮人は何人いたのか
地震発生時刻は9月1日午前11時58分44秒。震源地は相模原湾海底、マグニチュード7.9。軟弱な地盤に家屋が密集する東京下町一帯は、地震による倒壊にとどまらず、大規模な火災の発生によって未曽有(「未 (いま) だ曽 (かつ) て有らず」の意)の大被害を受けました。
関東全域の被害はおおむね次の通りです。
死者・行方不明者 105,385人(約10万5千)
家屋全壊 128,000戸
家屋半壊 102,000戸
家屋全焼失 447,000戸
避難人数 190万人以上
そして東京の総被害状況は・・
死者 58,104人(本所・深川両区の死者 51,168人)
全半焼家屋 1,383,849戸
倒壊家屋(焼失しなかったもの)11,842戸
行方不明(大正14年5月現在)10,556人
では、震災当時の東京における人口、および在日した朝鮮人の人口はどれくらいだったのか。
東京都15区部人口 約226万5千人
郡部人口 約174万人
合計 約405万人
全国に在日した朝鮮人人口80,617人
(内務省警保局統計)
このうち、震災時の東京には何人の在日朝鮮人がいたのか。季節労働者や住所不定者などが多かったため、正確には解りませんが、政府の計算では東京在住者はおよそ9千人(労働者6千人、学生3千人)とされています。(『現代史資料6』朝鮮総督府警務局文書)
横浜ほか東京近県には3千人が住んでいたので、合計1万2千人。夏休みで帰郷していた学生がこのうち2,200人(東京1,800、その他400)と推定され、差し引き9,800人が東京・横浜附近にいた。これは多くの関係資料が認めるところです。
ただし、『多くの虐殺があった』と主張する関係書では、在日の全朝鮮人数、東京および近郊在住の朝鮮人数ともに、これより多めの数字があげられています。
問題は、この1万人弱のうち、『虐殺』があったとすれば、何人が殺されたのか。地震で死んだ朝鮮人は何人なのか、関東を脱出した者は何人いたのか、ということです。
♦ 掠奪 強姦をくりかえす
朝鮮人襲撃説の発端は、②「朝鮮人が震災に乗じて殺人、強姦を行い、井戸に毒を入れるらしい」という情報が横浜から広まったことでした。東京市内にその情報が入ってきたのはおおむね二日の夕刻以降です。しかし、それは本当に今日まで伝えられているような『流言飛語』(口づてに伝わる、根拠 のない情報)だったのでしょうか。
実は、無数の目撃談が報じられていたのです。9月3日・4日の新聞には、「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く」「鮮人、至る所めったぎりを働く二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場を警カイ員が発砲して直ちに逮捕した」(いずれも『東京日日新聞』)などの記事が登場します。
横浜では、朝鮮人およそ二千人が掠奪(りゃくだつ)と強姦をくりかえし、軍隊の出動もままならないので、監獄の囚人を解放して、看守の指揮のもとでこれに対抗して大戦闘になり、朝鮮人百余人をたおした。という証言があります。(『河北新報』)
また品川では、横浜方面から鉄砲や日本刀で武装した三百人ほどの朝鮮人が押し寄せて爆弾を投げて暴れ、住民が防戦するうち、第三連隊が出動して鎮圧したか、朝鮮人と間違えられて殺された日本人もかなりいたという証言もありました。(『北海タイムズ』)こうした証言はあげれば切りがないほどです。
しかし、どの報道も抑え込まれ、『無実の朝鮮人が虐殺された』という主張におおいつくされてしまうのです。この大地震の発生以前も、まるでその予兆であるかのように、日本は激動のさなかにありました。
大正10年11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺されました。その直後、大正天皇の『御不予』(御不例・ご病気)の発表と同時に、皇太子裕仁親王を摂政とする詔勅が出されます。(ちなみに震災当日、天皇は日光田母沢でご療養中でした)
原内閣のあとを引き継いだ高橋是清内閣も翌年6月、内閣府統一によりわずか半年足らずで瓦解。さらに、後継の加藤友三郎首相は8月24日に急死してしまいます。次期首相には大地震の4日前の8月28日午後、海軍大将 山本権兵衛に二度目の大命が下りました。
♦ 朝鮮人の犯罪が多発
天皇の御不例が巷間噂されはじめた大正6年(1917年)10月にはロシア革命が成立して、労働運動の波が朝鮮半島をも席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって、日本本土でも社会主義者・共産主義者が勢いを得ました。
ロシア革命の成功からコミンテルン創立への一連の趨勢が民族主義と一つになって発火したのが大正8年(1919年)3月、韓国における『三・一独立運動』です。暴動は鎮圧されましたが、同年9月12日、テロリストによる総督府爆弾投擲事件が発生。犯行は組織的テロ集団「義烈団(ウイヨルダン)」の金益相(キムイクサン)によるものとわかり、金は上海で逮捕されました。
独立運動の中心人物たちは上海へいったん上陸し、満州の間島(カンド・現・中国吉林省東部、ロシア、北朝鮮に向かい合う一帯)であらためて武装闘争の準備をはじめます。別の一群は日本を運動拠点に定め、密入国して朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指しました。
以来、日本における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい、活動資金調達のための現金強奪事、首相官邸の爆破襲撃未遂事件などが多発します。
地震発生直後から自警団が組織されたのは、そういう社会不安が背景にあったからかもしれませんが、自分の住む町内は可能な限り自力で守るという伝統は、江戸時代の「自身番」からつづく我が国の習慣です。そこへ朝鮮人襲撃の情報が入ってきたのですから自衛に立ち上がるのは当然でしょう。
♦ なぜ「皇太子暗殺」か
この震災のため、11月17日に予定されていた御大典、摂政宮(皇太子)と久邇宮良子女王の御婚儀も、摂政宮の御要望によって延期となりました。摂政宮は一刻も早く市内の惨状視察と慰問を兼ねた行幸を実現させたいと側近を急がせていました。
けれど、宮中には戒厳令司令部からとくに厳しい規制と警戒が届いていた。朝鮮人の襲撃が万が一にもあってはならないからです。
この年の4月、皇太子は軍艦『金剛』で台湾行啓に赴きましたが、このときすでに『義烈団』のテロ行為が危ぶまれていました。『義烈団』は台湾で早くから皇太子暗殺計画を練り、団員はすべてピストルを携行し爆弾部隊も編成されていましたが、結果として厳重な警戒態勢が功を奏し、ぶじ台湾視察から帰国できました。
しかし、『義烈団』をはじめとする朝鮮人過激派は皇太子暗殺を諦めたわけではなく、実は摂政宮の御婚儀の機会を虎視眈々と狙っていたのです。摂政宮を暗殺し、日本の国体を揺るがせて独立運動の勝利に結びつけようという朝鮮独立運動家たちのたくらみは政府も重々承知して、警戒を強めていました。
目標達成のため日本国内への侵入をくりかえし、時機をうかがっていた上海の大韓民国臨時政府とその庇護を受けたテロ集団にも路線をめぐる党派争いがあり、その結果、いくつかに分裂した集団は個々に計画を練り、日本内地襲撃を狙っていたと考えられます。
とはいえ、いずれの分派も目標の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標とし、一斉に暴動を起こすことが画策されていました。ところが、テロリスト集団さえ予想もしなかった大地震が、まだ準備の整わない9月1日に起きてしまった。彼らにとっても想定外の混乱が生じたようです。
本所深川あたりから避難してきた罹災者約3千名が集まっていた越中島の糧秣廠を爆破し、多くの避難民を殺害して逮捕された朝鮮人テロリストの証言によれば、目標は11月27日の御大典だったが、大震災が起こって予定どおり行われるかどうかわからなくなったので、大震災という好機を逃すべからずと決断したとのことでした。同じように「目標は御大典だったが、大震災に乗じてことを起こした」と自白したテロリストはずいぶん多かったようです。
♦ 朴 烈・金子文子逮捕
9月3日、戒厳令発令直後の東京淀橋警察署は朝鮮人無政府主義者 朴烈とその愛人 金子文子を逮捕した。朴烈は御成婚の折に皇太子をはじめ政治経済界の大物たちを爆殺する計画をたてていました。
こうした大胆な計画の実行と資金調達は組織力や指導部なしに実行することはできません。いかに朝鮮独立運動の志が堅いとはいえ、抗日パルチザンの主力は満州北辺の関島と上海にいるのですから、内地にも有力な支援組織があると考えるのが当然でしょう。
黒龍会の主宰者 内田良平は、震災時における朝鮮人の謀略をいちはやく告発した人物です。彼は、それを政府に訴えた文章のなかで、朝鮮独立運動家の背後にいるのは社会主義者であり、日本の赤化運動を狙うロシアが日本の社会主義者と朝鮮人を扇動し、社会主義者と朝鮮人は気脈を通じ合っていると指摘しました。
その言葉とおり、大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は、「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる規模なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因る(よる)ものなり」と喜んだといいます。(『現代史資料6』)
『義烈団』の団長 金元鳳(キムウォンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせました。『義烈団』は保管してた爆弾50個を安東(アントン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチしています。
市民に厳重な警戒を求めるよう報道を指揮してきた内務省ですが、震災翌日には風向きが変わりはじめます。最初の異変は『東京朝日新聞』の4日付手書き号外に現れました。「武器を持つ勿れ 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にイヂメてはならぬ」ほぼ同じ内容の「善良な鮮人を愛せよ」という告示が翌朝、他紙にも掲載されます。
これらの記事では、朝鮮人の襲撃がなかったとは一言も書いていませんが、戒厳令が発令された以上は軍にまかせて市民は武器を持つな、善良な朝鮮人もいるのだから、そういう者は敵視するなろいう限定した意味が込められています。
はじめのうちはそのようにゆるやかな表現でしたが、それが一転、強制力をもった指令の形をとるようになりました。9月6日に『三大緊急勅令』なるものが公布され、朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰するという強硬手段に出たのです。
♦ ミソもクソも『強制連行』に
同時に一般朝鮮人への保護具体策が次々にとられました。市内の朝鮮人を千葉県習志野、および下志津の兵舎に収容し、衣食住と医療を安定させました。朝鮮人収容能力は1万5千人分にも達しました。(これは収容能力であって、実際に収容された人数ではありません)
(出典先)都が許可をした慰霊祭と共に開かれた偏向パネル展 : そよ風
(※強制連行の他に、朝鮮人保護に対し「軍に拘束された」と史実に対し言葉を捻じ曲げて旧日本軍を貶める行為が行われていた事が発覚)
ところが、それさえ歩かされて「強制連行」されたと主張する史料が多いのです。自動車などあるはずがないではありませんか。市民への食糧、医薬品、警備に使う車さえこと欠き誰もが歩いていたのです。
新聞は手のひらを返したように、「鮮人団相愛会が無償で道路工事 誤解をとく為に奉仕」「鮮人に救はれた老婆」などという朝鮮人の"美談”を載せ始めましたが、「道路工事」というのは要するに道路の障害物を取り除く作業です。有料で震災のあとかたづけをする日本人がいたとしたら教えてほしいものです。
こうした一連の措置は、内務相兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平の発案によるものでした。後藤は、『朝鮮人の暴動があったことは事実だが、このまま自警団にまかせて力で押しつぶせば、彼らはそのままでは引き下がらないだろう。その報復の矢先が万が一にも御上(皇室)に向けられたら大変なことになる」と、当時、警視庁官房主事であった正力松太郎に語ったといいます。やはり、皇太子暗殺の懸念が強かったのでしょう。
やむを得なかったといえばその通りなのですが、こうして朝鮮人の暴動はなかったこと、あるいはデマだった、「流言飛語」に惑わされたのだ、という虚構にすりかえられていったのです。
♦ 死体がないのに「虐殺」
やはり朝鮮人による暴動はあった、それも皇太子暗殺という恐るべき計画が進められていたのだということがはっきりしたうえで、では、どれだけ「朝鮮人虐殺」が行われたというのか、表面に表れてきた数字を見ていくことにしましょう。(虐殺と言う表現が正しいのかどうかは疑問ですが・・・)
多くの朝鮮独立運動家が結集していた上海の大韓民国臨時政府が発行する機関誌『独立新聞』が報じた数は6,419人です。これは多くの関係書に翻訳引用され、「虐殺人数の原点」扱いされているものですが、ここには「屍体を発見できなかった同胞」実に2,889人としています。
死体が発見されないまま、それを「虐殺された」と主張してカウントするのは道理が通りません。それは「行方不明者」であって、「行方不明者だから殺された」というのは非論理的です。震災によって圧死したか、焼死したと考えるのが当然でしょう。
「死体を発見した」とされる1,274人も、殺害されたのか震災による死体なのかの判断はどうしたのか。どうやって日本人と朝鮮人の死体を見分け、どうやってカウントしたのか、さっぱり要領を得ない。
「同胞同志の勘で被害者を集計したものもある」と ある調査員自身が告白しています。すべてがこの調子です。
「独立新聞」とは別に、学生を中心とした「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」に所属する崔承万(チェスンマン)の調査によれば、虐殺された人数は「2,607人または3,459人」となっています。「または」という根拠薄弱な表記や、500人、80人、200人といった大雑把な内訳の数字をみただけも、その信憑性を疑わざるを得ません。
ところが、大正時代を代表する民本主義として著名な吉野作造が主張する2,613人という数字も、崔承万の調査をもとにしているのです。
もう一つ、私は取材の過程でロンドン・ナショナル・アーカイブスから新たな資料を発見しました。③それは横浜の英国総領事が郵送で受け取った「朝鮮独立運動の朝鮮人」発行の小冊子とチラシで、そこには関東大震災時に23,059人が虐殺されたと記載されています。
この途方もないい異常な数字は、まさに「南京大虐殺」のプロパガンダさながら。世界に向けて彼らは日本を陥れようとしていたことがうかがえます。
もっとも、「(その内容は)筆者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を煽動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます」という在京イギリス大使の添え書きがあるので、これはまともに受け取られなかったようです。
前述したように、震災直後に東京およびその周辺にいた朝鮮人の総人口は9,800人。そのうち、3,169人が習志野の陸軍廠舎に、2,500人が市内各警察署に、617人が目黒競馬場に、471人が埼玉・栃木の各警察署に、40人が神奈川県庁にそれぞれ収容保護されていきました。ここまでで6,797人。
その収容中の待遇に不平不満をいいつのり「飯がまずい」「強制連行された」「扱いが乱暴だった」と口々に文句を並べた記録が残されています。しかし、保護された朝鮮人は食糧を与えられ、テントで雨露がしのげました。
一方、被災した日本人の大多数は野宿をしたり、食糧も不足し、トイレもない生活を強いられていたことを忘れてはなりません。
さて、戒厳令司令部は自警団等による過剰防衛容疑の日本人367人を起訴しています。その調査に基づいて、殺害された無辜の朝鮮人の人数は233人であると公表されました。 さたに、朝鮮人と間違えられて殺害された日本人57名、中国人4名となっています。
東京およびその周辺にいた朝鮮人の人口9,800人からこの無辜の被害者数233人を差し引くと2,770人となります。
(※ 東京およびその周辺にいた朝鮮人の人口:9,800人-収容保護された朝鮮人の人数:6,797人=3,003人となり、収容保護された朝鮮人数を差し引いた東京および周辺にいた朝鮮人数:3,003人-殺害された無辜の朝鮮人数:233人=2,770人となります。)
このなかに、不幸にして震災の犠牲になった者や行方不明者が含まれるはずです。
♦ 震災の朝鮮人死者はゼロ!?
東京府全体の死者、行方不明者は7万人余(死者総数は10万5千人余)、下町界隈の死者は実にその80%といわれ、朝鮮人も多く居住していた本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えています。
本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼりました。多くの朝鮮人の家屋はおそらく耐久性も低く、劣悪な環境だったと推察されるので、それより多めの20%を対人口死亡率とし、被災基礎人口9,800人に乗ずると、1,960人という数字が死者、行方不明者として算出されます。2,770人からこれを引けば810人となり、これがテロリストやその賛同者、または付和雷同して殺害されたおよその人数と推定していいでしょう。
収容保護された6,797人、政府発表の被殺害者数233人に加えて、「独立新聞」の主張する被殺害者数6,419人を加えてみると、それだけで、13,449人にふくれあがる。都合13,449人の朝鮮人が「殺害ならびに強制連行された」とすると、あの大震災によって死亡した朝鮮人は一人もいないことになってしまいます。
仮に崔承万の調査による2,607人余を加算しても9,613人となり、震災による朝鮮人死者はやはりほとんどいないことになる。いったい、吉野作造や松本清張、大江健三郎、吉村昭といった「朝鮮人虐殺」を糾弾した学者や作家たちは、この単純な数字のトリックに気づかなかったのでしょうか。
♦ 市民の自衛は正義の戦い
日本人と朝鮮人の衝突は不幸な事件であることは事実ですが、もとはといえば、横浜から押し寄せてきた朝鮮人の一団をはじめ、多くのテロリストが目の前に現れたゆえの結果です。ゲリラと呼んでもいいでしょう。
自警団は自らの命をかけて、民族独立のためには手段を選ばない、皇太子暗殺さえ計画していた朝鮮人テロリストの襲撃から街を、家族を守ったのです。そうでなければ、組織的な主義主張をもって日本を大混乱に陥れようとするテロリストたちに組み伏せられ、町の破滅が国歌への破滅へと進んだに違いありません。
これは正義の戦いです。もう「朝鮮人虐殺」という謀略宣伝から日本人は自由になるべきです。
ちなみに、この年の11月23日、摂政宮は新嘗祭において初めての重要な祭祀を執り行いました。この時、警備の武官たちは儀礼用のサーベルではなく、太身の日本刀に替えるよう奈良侍従武官長から命じられています。まだまだ安心は出来なかったのです。
そして12月27日、第48回通常国会の開会式に臨むため議事堂に向かう摂政宮を乗せた車に、一人の男がステッキに仕込んだ散弾銃で皇太子の車に向けて発砲しました。犯人は社会主義にかぶれた難波大助という青年で、過激派朝鮮人とは無関係でした。この事件をきっかけに、震災特別内閣ともいえる山本内閣は総辞職し、その使命を終えます。
我が国の国体そのものを破壊しようとしたコミンテルンの方針の下にテロ集団が押し寄せてきた、というのが実態なのです。数千人を虐殺した、などという数字の根拠は皆無で、単なる謀略宣伝にしか過ぎないことがおわかりいただけたと思います。
(文字起こし終了)
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引用記事に関する補足
ここでは文章中、番号を付した箇所について根拠となる記事、動画等を掲載してあります。
♦ ①『南京大虐殺』のデマゴーグについて
※南京大虐殺に関してはこちらを参照
※中国や中国シンパが必死になって喧伝する、旧日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行った(南京大虐殺:30万人虐殺)というのが嘘、デタラメであるという証拠!
大虐殺派のウソの写真、証言 (閲覧注意)
♦ ②「朝鮮人が震災に乗じて殺人、強姦を行い、井戸に毒を入れるらしい」という、朝鮮人襲撃説の発端となった情報について
※震災に乗じた朝鮮人による殺人、強姦、井戸に毒、他(放火、略奪、列車爆破計画、戦闘など)の犯罪行為が本当にあったという根拠
関東大震災の朝鮮人 日本の現在(危ない日本)より
♦ ③横浜の英国総領事が郵送で受け取った「朝鮮独立運動の朝鮮人」発行の小冊子について
この小冊子の内容について詳細に書かれているサイトをみつけましたが、かなり恐ろしい事が書かれてあるのを発見しました。
それがこちら→ 『2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは「日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと』(出典先)JOG(665) 震災下のテロとの戦い
しかも「2万人以上」という大きく盛に盛ったデタラメな数字が記載されています。
そして「日本人が朝鮮人を殺したように」という、その殺人方法まで詳細に書かれてありますが、これがかなりエグイ!(ここでは書けません。)そもそもその方法とはかつて中国や朝鮮で行われていた虐殺方法であり、日本人がやるような事ではない。いかにウソ、デタラメかがわかります。